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第1章 ベクトルとその基本演算

1.1 実ベクトルの定義

まず、線形代数学の基本的な構成要素である「ベクトル」を定義します。

定義: \(n\)次元実ベクトル (n-dimensional real vector) \(n\)個の実数を縦に並べたものを\(n\)次元実ベクトルと呼び、以下のように表記する。

\[\mathbf{v} = \begin{pmatrix} v_1 \\ v_2 \\ \vdots \\ v_n \end{pmatrix}\]

ここで、\(v_1, v_2, \ldots, v_n\) は実数であり、ベクトルの各要素を成分 (component) と呼ぶ。

このような\(n\)次元実ベクトル全体の集合を \(\mathbb{R}^n\) と表記し、\(n\)次元実ベクトル空間 (n-dimensional real vector space) と呼びます。特に重要な例は以下の通りです。

  • \(\mathbb{R}^2\): 2次元実ベクトル空間(平面ベクトル)
  • \(\mathbb{R}^3\): 3次元実ベクトル空間(空間ベクトル)

データサイエンスの文脈では、個々のデータサンプルをベクトルとして表現することが極めて一般的です。例えば、ある被験者の「年齢、身長、体重、血圧」という4つの健康指標は、\(\mathbb{R}^4\)に属する4次元ベクトルとして扱うことができます。

1.1.1 ベクトルの表記法

ベクトルは文脈に応じていくつかの方法で表記されます。

  1. 成分表示: 上記の定義通り、成分を縦に並べて括弧で括る方法です。 \(\(\mathbf{v} = \begin{pmatrix} v_1 \\ v_2 \\ \vdots \\ v_n \end{pmatrix}\)\)

  2. 太字記号: スカラー(単なる実数)と区別するため、ベクトルは \(\mathbf{v}\) のような太字のアルファベットや、\(\vec{v}\) のように矢印を付けて表されます。

  3. 転置を用いた行ベクトル表示: 紙面の都合上、縦長の列ベクトルを横書きで表現したい場合があります。その際は、成分をコンマで区切って並べ、右上に転置記号 \(T\) (transpose) を付記します。転置は行と列を入れ替える操作です。 \(\(\mathbf{v} = (v_1, v_2, \ldots, v_n)^T\)\)

1.1.2 零ベクトル

ベクトルの世界における「ゼロ」の役割を果たす特別なベクトルを定義します。

定義: 零ベクトル (zero vector) すべての成分が \(0\) であるベクトルを零ベクトルと呼び、\(\mathbf{0}\) と表記する。

\[\mathbf{0} = \begin{pmatrix} 0 \\ 0 \\ \vdots \\ 0 \end{pmatrix}\]

零ベクトルは、後述するベクトルの加法における単位元として機能します。

1.2 ベクトルの演算

ベクトルに対して定義される基本的な演算は「和」と「スカラー倍」です。

1.2.1 ベクトルの和(加法)

定義: ベクトルの和 (vector addition) 同じ次元を持つ2つのベクトル \(\mathbf{v} = (v_1, \ldots, v_n)^T\)\(\mathbf{w} = (w_1, \ldots, w_n)^T\) に対し、その和 \(\mathbf{v} + \mathbf{w}\) を次のように対応する成分ごとの和として定義する。

\[\mathbf{v} + \mathbf{w} = \begin{pmatrix} v_1 + w_1 \\ v_2 + w_2 \\ \vdots \\ v_n + w_n \end{pmatrix}\]

重要な注意点: ベクトルの和は、次元(成分の数)が等しいベクトル同士でのみ定義されます。

: \(\mathbf{v} = \begin{pmatrix} 1 \\ 3 \\ 5 \end{pmatrix}\)\(\mathbf{w} = \begin{pmatrix} 2 \\ -1 \\ 4 \end{pmatrix}\) の和は、 \(\(\mathbf{v} + \mathbf{w} = \begin{pmatrix} 1 + 2 \\ 3 + (-1) \\ 5 + 4 \end{pmatrix} = \begin{pmatrix} 3 \\ 2 \\ 9 \end{pmatrix}\)\) となります。

1.2.2 ベクトルのスカラー倍

定義: ベクトルのスカラー倍 (scalar multiplication) ベクトル \(\mathbf{v} = (v_1, \ldots, v_n)^T\) と実数(スカラー)\(\alpha\) に対し、\(\mathbf{v}\) のスカラー倍 \(\alpha\mathbf{v}\) を、各成分に \(\alpha\) を乗じることで定義する。

\[\alpha\mathbf{v} = \begin{pmatrix} \alpha v_1 \\ \alpha v_2 \\ \vdots \\ \alpha v_n \end{pmatrix}\]

: \(\mathbf{v} = \begin{pmatrix} 2 \\ 3 \\ -1 \end{pmatrix}\) とスカラー \(\alpha = 3\) に対するスカラー倍は、 \(\(3\mathbf{v} = \begin{pmatrix} 3 \cdot 2 \\ 3 \cdot 3 \\ 3 \cdot (-1) \end{pmatrix} = \begin{pmatrix} 6 \\ 9 \\ -3 \end{pmatrix}\)\) となります。


第2章 ベクトル演算の代数的性質

ベクトルの和とスカラー倍の定義から、いくつかの重要な代数的性質が導かれます。これらの性質は、実数の演算規則と酷似しており、ベクトル計算の基礎をなします。

2.1 ベクトル加法の性質

任意の\(n\)次元ベクトル \(\mathbf{u}, \mathbf{v}, \mathbf{w}\) と零ベクトル \(\mathbf{0}\) に対して、以下の性質が成り立ちます。

  1. 結合法則 (Associativity): \((\mathbf{u} + \mathbf{v}) + \mathbf{w} = \mathbf{u} + (\mathbf{v} + \mathbf{w})\)
  2. 交換法則 (Commutativity): \(\mathbf{v} + \mathbf{w} = \mathbf{w} + \mathbf{v}\)
  3. 単位元 (Identity element) の存在: \(\mathbf{v} + \mathbf{0} = \mathbf{v}\)
  4. 逆元 (Inverse element) の存在: 各ベクトル \(\mathbf{v}\) に対して、\(\mathbf{v} + (-\mathbf{v}) = \mathbf{0}\) を満たす逆ベクトル \((-\mathbf{v})\) が存在する。ここで、\(-\mathbf{v} = (-1)\mathbf{v}\) である。

2.2 スカラー倍の性質

任意のスカラー \(\alpha, \beta\) と任意のベクトル \(\mathbf{v}, \mathbf{w}\) に対して、以下の性質が成り立ちます。

  1. スカラー乗法の単位元: \(1\mathbf{v} = \mathbf{v}\)
  2. スカラー乗法の結合法則: \(\alpha(\beta\mathbf{v}) = (\alpha\beta)\mathbf{v}\)
  3. 分配法則 (Distributivity) 1: \((\alpha + \beta)\mathbf{v} = \alpha\mathbf{v} + \beta\mathbf{v}\)
  4. 分配法則 (Distributivity) 2: \(\alpha(\mathbf{v} + \mathbf{w}) = \alpha\mathbf{v} + \alpha\mathbf{w}\)

第3章 ベクトルの幾何学的解釈

ここまではベクトルを数値の組として代数的に扱ってきましたが、ベクトルは幾何学的な対象、すなわち「大きさと向きを持つ矢印」としても解釈できます。この視点は、線形代数の直観的な理解を大いに助けます。

3.1 2次元平面上のベクトル

\(\mathbb{R}^2\) のベクトル \(\mathbf{v} = (v_1, v_2)^T\) は、座標平面上の原点 \((0, 0)\) を始点とし、点 \((v_1, v_2)\) を終点とする有向線分(矢印)として可視化できます。

3.2 ベクトルの和の幾何学的意味

2つのベクトル \(\mathbf{v}\)\(\mathbf{w}\) の和 \(\mathbf{v} + \mathbf{w}\) は、幾何学的には以下の手順で得られるベクトルに対応します。 1. ベクトル \(\mathbf{v}\) を描く。 2. \(\mathbf{v}\) の終点を始点として、ベクトル \(\mathbf{w}\) と平行で同じ長さのベクトルを描く。 3. 最初の始点(原点)から、2.で描いたベクトルの終点へ向かうベクトルが \(\mathbf{v} + \mathbf{w}\) となります。

これは、\(\mathbf{v}\)\(\mathbf{w}\) を2辺とする平行四辺形の対角線として表されるため、平行四辺形の法則 (parallelogram law) とも呼ばれます。

幾何的理解

3.3 スカラー倍の幾何学的意味

ベクトル \(\mathbf{v}\) のスカラー倍 \(\alpha\mathbf{v}\) は、ベクトル \(\mathbf{v}\) の向きと長さを変化させます。

  • \(\alpha > 0\) の場合: \(\alpha\mathbf{v}\)\(\mathbf{v}\)同じ向きで、長さが \(\alpha\) 倍になります。
  • \(\alpha < 0\) の場合: \(\alpha\mathbf{v}\)\(\mathbf{v}\)反対の向きで、長さが \(|\alpha|\) 倍になります。
  • \(\alpha = 0\) の場合: \(\alpha\mathbf{v}\) は長さが \(0\) のベクトル、すなわち零ベクトル \(\mathbf{0}\) となります。