6. ベクトルと行列
線形代数学 I: 特別な役割を持つ行列
これまでの講義で、行列の基本的な演算(和、積)について学びました。今回は、その中でも特に重要な性質を持ち、様々な場面で登場する「特別な行列」に焦点を当てます。これらの行列の性質を理解することは、線形代数の理論をより深く探求する上で不可欠です。
第1章 単位行列: 行列の乗法における「1」
1.1 単位行列の定義
定義: 単位行列 (Identity Matrix) 単位行列 \(I_n\) とは、\(n \times n\) の正方行列であり、主対角線(左上から右下への対角線)上の要素がすべて \(1\) で、それ以外の要素がすべて \(0\) である行列を指します。
\[I_n = \begin{pmatrix} 1 & 0 & \cdots & 0 \\ 0 & 1 & \cdots & 0 \\ \vdots & \vdots & \ddots & \vdots \\ 0 & 0 & \cdots & 1 \end{pmatrix}\]
1.2 単位行列の性質
単位行列は、実数の「1」が乗法で果たす役割と非常によく似ています。
- 乗法の単位元: 任意の行列 \(A\) に対して、積の前後から掛けても \(A\) は変化しません。 \(\(AI = IA = A\)\)
- 逆行列: 単位行列の逆行列は、単位行列自身です (\(I^{-1} = I\))。
- 対称性: 単位行列は対称行列です。
第2章 転置行列: 行と列の入れ替え
2.1 転置行列の定義
定義: 転置行列 (Transpose Matrix) 行列 \(A\) の転置行列 \(A^T\) とは、\(A\) の行と列を入れ替えて得られる行列です。\(A\) が \(m \times n\) 行列ならば、\(A^T\) は \(n \times m\) 行列となります。
\[A = (a_{ij}) \implies A^T = (a_{ji})\]
例: \(A = \begin{pmatrix} 1 & 2 & 3 \\ 4 & 5 & 6 \end{pmatrix}\) (\(2 \times 3\)) の転置行列は、 \(\(A^T = \begin{pmatrix} 1 & 4 \\ 2 & 5 \\ 3 & 6 \end{pmatrix} \quad (3 \times 2)\)\)
2.2 転置行列の性質
- 二重転置: \((A^T)^T = A\)
- 和の転置: \((A + B)^T = A^T + B^T\)
- スカラー倍の転置: \((cA)^T = cA^T\)
- 積の転置: \((AB)^T = B^T A^T\) (⚠️ 積の順序が逆になる点に注意)
第3章 対称行列と交代行列: 行列の分解
転置操作を用いることで、行列を「対称な部分」と「非対称な部分」に分けることができます。
3.1 対称行列 (Symmetric Matrix) зеркало
定義: 正方行列 \(A\) が、自身の転置行列と等しいとき (\(A = A^T\))、その行列を対称行列と呼びます。主対角線に対して要素が鏡写しのように配置されています。
例: \(\(A = \begin{pmatrix} 1 & \mathbf{2} & \mathbf{3} \\ \mathbf{2} & 4 & \mathbf{5} \\ \mathbf{3} & \mathbf{5} & 6 \end{pmatrix}\)\)
構成法: 任意の行列 \(A\) に対して、\(A^T A\) および \(A A^T\) は常に対称行列になります。これは統計学の共分散行列などで頻出する形です。
3.2 交代行列 (Skew-symmetric Matrix)
定義: 正方行列 \(A\) が、自身の転置行列にマイナスをつけたものと等しいとき (\(A^T = -A\))、その行列を交代行列(歪対称行列)と呼びます。対角成分は必ず \(0\) になります。
例: \(\(A = \begin{pmatrix} 0 & 2 & -3 \\ -2 & 0 & 5 \\ 3 & -5 & 0 \end{pmatrix}\)\)
💡ハイライト:行列の分解
任意の正方行列 \(A\) は、対称行列と交代行列の和として一意に分解できます。 \(\(\Large A = \underbrace{\frac{1}{2}(A + A^T)}_{\text{対称成分}} + \underbrace{\frac{1}{2}(A - A^T)}_{\text{交代成分}}\)\) これは、複雑な行列を、性質のよい単純な行列の組み合わせとして理解できることを示しています。
第4章 直交行列: 形を保つ変換
転置行列が逆行列として機能する、扱いやすい行列です。
定義: 直交行列 (Orthogonal Matrix) 正方行列 \(A\) が、\(A^T A = A A^T = I\) を満たすとき、その行列を直交行列と呼びます。
- この定義は、\(A^{-1} = A^T\) であることを意味します。転置を取るだけで逆行列が求まるため、計算上非常に有利です。
- 幾何学的意味: 直交行列が表す線形変換は、ベクトルの長さを変えず、ベクトル間の角度も変えません。これは図形を回転させたり、鏡映(反転)させたりする「剛体変換」に対応します。
例: 2次元の回転行列は直交行列の典型例です。 \(\(R(\theta) = \begin{pmatrix} \cos\theta & -\sin\theta \\ \sin\theta & \cos\theta \end{pmatrix}\)\)
第5章 計算を簡単にする行列
今後の学習で、行列式や固有値などを計算する際に、これらの行列が登場すると計算が劇的に楽になります。
5.1 対角行列 (Diagonal Matrix)
定義: 主対角線上の成分以外がすべて \(0\) である正方行列。 \(\(D = \begin{pmatrix} d_1 & 0 & \cdots & 0 \\ 0 & d_2 & \cdots & 0 \\ \vdots & \vdots & \ddots & \vdots \\ 0 & 0 & \cdots & d_n \end{pmatrix}\)\)
利点: べき乗の計算が非常に簡単です (\(D^k\) は各対角成分を \(k\) 乗するだけ)。
5.2 三角行列 (Triangular Matrix)
定義: 主対角線より上(または下)の成分がすべて \(0\) である正方行列。 - 上三角行列: 対角線より下の成分がすべて \(0\)。 - 下三角行列: 対角線より上の成分がすべて \(0\)。
利点: 三角行列の行列式は、対角成分の積となります。これは行列式の計算を大幅に簡略化します。